先日、染織家であり人間国宝の志村ふくみ先生の京都の工房を訪ねた。
静かで、外が非常に暑いにも関わらず、中は、ひんやりとして、植物とりわけ、藍の生命エネルギーの強さそして、優しさを感じさせてくれる工房であった。
 見る物すべてが私にとって新鮮で刺激的だったが、志村ふくみ先生のご好意で数時間にも渡って、先生とお話をさせていただくことができたことは、とても貴重な経験だった。現在90歳を超えるご高齢であるにも関わらず、年に何回も、世界各地、日本各地を展覧会講演などで旅行され、実際お会いした顔色も本当に若々しかった。
 忙しくされているとはいうものの、若さの秘訣は、若い弟子の方達とともに染織の時間を心の底から楽しんで、草木と会話し、命の交流をしている時間をシンプルに過ごされているだけだからかもしれない。
 人生の時間から、よけいな物をほとんど取り外し、命の本質を感じる時間を淡々と楽しんで過ごす。これが究極の人生の楽しみ方だと教えられた気がした。
 まだまだ、どんどんお元気になっていただけそうな感じだ。志村ふくみ先生とお話しさせていただきながら、「それが究極の人生なら、人間は何を求めて生きているのか?」ということを少し考えていた。
 アメリカ合衆国の心理学者アブラハム・マズローは人間の欲求を6段階に分けた。つまり、①生理的欲求②安全欲求③社会的欲求④尊厳欲求⑤自己実現欲求さらに⑥自己超越欲求だ。大きく捉えると、欲求の方向性は、外的な欲求から、内的な欲求へすすんでいく。
「自己実現欲求及び自己超越欲求とは、自分自身が「大いなるもの、本質」を体現した状態を経験し、絶えずそれとつながっていると実感したい欲求ではないか。」と漠然と私は、とらえている。大いなるもの、本質を、感じた状態が インスピレーションを受けた、と感じる状態であり、本質を感じ、体現し続けている状態が、悟り・ 涅槃の状態なのかもしれない。
 結局、人間の歴史を振り返ると、潜在的に、人間は、この、本質を体現している状態をめざしているのかもしれないが、現実的には、目指しながらほとんど、何がしかの思い込みから逃れられず、達成できなかった歴史の繰り返しではあることが分かる。
 その目指す際には、ゼロからの第一歩目を、「直感」を働かせて方向を決める。そして、進みながら本当にこの方向でよいのか、実際には思い込みではないかと考える能力が「知性」だと思う。
 これは、動物のなかで、人間が極端に、発達させている能力である。 知性は武器であり手段である。知性を捨ててしまった状態が、「思い込み」に身を固めた状態、修行不足の宗教家の状態、中途半端な学者の状態、中途半端な政治家の状態、思い込み、常識的に生きる事しか知らない奴隷のような、民衆の状態である。
 また、本質を感じた状態は、あまりにも、「快」の状態で、衝撃的な体験のため、その感覚に依存してしまう人間の習性を利用したのが、新興宗教の勧誘の仕方であるし、宗教で道を外してしまう最大の要因である。それは、本質をかすめただけの経験だというのに。感覚に踊らされて、それを信仰し知性を捨ててしまう。
 さらに、治療家、医療従事者でも、一度何らかの治療法で奇跡的な効果を認めると、それが全てと思い込んで、思考が停止してしまうことが多い。そしてその時、その治療法を信仰し囚われてしまう。一つの局面でうまくいって、効果がでたことに過ぎないのに、それが、どんな状況でも同じような結果がでるに違いないと信じこんでしまう。これは、治療家、医療従事者の昔からの落とし穴である。
実際に現場の臨床家は、それに対して危機感を感じていたため、EBM:evidence-based medicineという考え方も生まれてきたのだ。
 いずれにしても、強い感覚は、人間から「知性」を奪い去っていく。「恋は盲目。」と言われるが、「恋」の状態から「愛」へ昇華させるために、何が必要か?それは、相手を理解しようとする継続的な「知性」であろう。

 マズローの欲求のなかで、低次の欲求を満たすため、人間は最初、生き残るために「知性」をつかった。そして、安全を手に入れ、安全な状態では、人間は、「生きることに」理由を求めた。それが尊厳欲求、自己実現欲求となる。しかし、自己実現とは、どのような状態が自己実現の状態か、ほとんどの人間は、勘違いしてしまう。
 目先の外的欲求を満たす事に専念しても、内的な欲求は満たされない。大金持ちも王様も内的な欲求はみたされない。 人類の中で、人生を終えるまでに内的欲求まで満たされた人間は少ない。ほぼすべての人間がこれを潜在意識では、目指しているのというのに。
 表面上人間は、外的な欲求を満たす事が、内的な欲求も満たされると勘違いしている。 人生の終わりのころになってその勘違いに気がつけばまだ良い方だ。ほとんどの人間は、勘違いしたまま人生を終えてしまう。
 数千年前から人類は、多くの人生がそのように繰り返されてきた。現代の我々が、その事に気がつくのは、歴史を紐解けば、そんなに難しい事ではない。きっかけは、ちょっとした「知性」を使うだけでよいのだ。
 自分は、本当は何を求めているのか。 人生の終わりにお金をいくら持っていても満たされない。今人生の終わりとして、満たされた状態それが、本質を感じ体現している状態だ。 いままで、人間が、生き残るために使った「知性」を、こんどは自分の魂の方向づけを固めるため「使用」する必要がある。本質へ向かうために、勘違いを「知性」が暴く、不要な物を 取り外すために「知性」が活躍する。
 自分と全く異なる考え方の人間も、自分自身と本質的にはつながっていることを理解するにも「知性」が発現する。その意味でも、知性は「愛」を誘導する。
 知性の欠如した関係性は、愛ではなく、表面的なもの刹那的なものだ。知性を使用し本質をつかむ、ということは涅槃、さとるということにつながる。これは、他の生物には不可能な状態だ、他の生物、知性が低い動物、植物であればあるほど、「本質」そのもので生きている。
 「本質」そのもので生きているということは、本質を「分かって」いないということだ。 夏しか知らない蝉が、夏の事を分かっていないように。冬のことを知ってはじめて夏を理解する。
 志村ふくみ先生は、「植物の魂の方が人間の魂よりも高位だ。」とおっしゃっていたが、私は、人間の魂はより、本質への「可能性」をもっていると感じている。 本質を「分かる」には、本質から外れた状態を知らなければならない。人間はそれを体験した。それを体験してきた貴重な歴史がある。
 さらに、本質を「分かる」と本質を自分で「うみだす」事ができる。人間には一人一人に創造主の能力が備わっている可能性がある。その本質を創る事ができた人間は、歴史上何人か、いたかもしれない。しかし、その弟子に本質を伝えることを「成功」した実績は未だかつてないと私は思う。
 それは、本質を、言葉で伝えようとしたからかもしれない。知性とは、あらゆる思い込みを自省して、気がつき取り外す方向性と私は考える。言葉、正確には言葉の「意味」を(音感ではなく)とらえようとした時点で本質に制限を加える作業であり思い込みとなる。思い込みが何代にも渡り、結局、人の幸せのために興った宗教が戦争を呼び込むなどという本末転倒な知性の欠如した事態になる。自分が本質をある程度つかみ、確認の意味で宗教書を読む事は、有意義な作業になるはずだ。しかし、逆は多くの場合、真とならない。
 あらゆる思い込みを自省し、気がつき、少しずつ取り外していく、そのような、本質への知性を身につけていく教育が真の教育ではないか。志村ふくみ先生の染織の学校では、教科書がないそうだ。なにかのノウハウと向き合うのではなく、ただひたすら、植物の命と裸で向き合う。思い込みを外し、知性をもって裸の魂で草木の魂と向き合い続ける。そして「ものを作る世界から、ものが自然に生まれてくる世界に知らず知らず移行してゆく。」(一色一生 志村ふくみ著P121より引用)これが志村ふくみ先生が人生をかけて目指し、獲得された人類へのプレゼントかもしれない。

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