monaco tibetano

今晩は、
天気予報がうまい具合に外れていただき、
気持ちのよい夕方です。
ちょいとこれからお酒を一杯いきたいですね。
いまは、東京からの帰り道で、
すこし途中下車して、オープンカフェでのんびりしています。
家路に急ぐ人々の足取りが軽く、楽しそうです。
人々の喧噪のわりに、空気が澄んでいて、呼吸が気持ちいい。
とてものんびりした休日の夕まづめです。
感謝!

今日の午後、ダライラマ法王の講演会に、参加させていただきました。
ダライラマ法王は、科学者との対話を何度も繰り返されています。
やはり、これから人類の方向性は、
科学と人間社会との関係性、
宗教と人間社会との関係性に
非常に依るところが大きいとのメッセージではないかと考えます。

今日勉強させていただいたことを覚え書きさせてください。
(ちなみに私は無宗教です。)

ダライラマ法王の仏教の定義:
人生を幸せに生活するためのもので二つの柱から成る。
①愛「ゆるし」の「実践」←単なるリップサービスでは絶対だめ。
②世界が相互依存に成っている事の理解←自分の幸せは相手の幸せに依る。

今日の講演会の大きな柱:科学と仏教の関係性。
<下記今日の勉強会後の私の理解>
科学:地球上のどのような宗教の人間とも共通の理解が得られる。
現実社会を理解するための道具。
科学的に物事をとらえるために、二元論が基礎に流れる。つまり、
実在と非実在
科学的な理解をすすめていくために非実在はその時点で除外する必要がある。
<あるのにないと考える。>
例)医療現場で、科学では説明つかないことが頻繁におこるのに、カンファレンスでは、話題にあがらない。というより逆に強くそのような話題は拒絶される。

私の理解では、科学の進歩とは、
いままで、非実在と思われていた部分が
実在であるとの認識が広がることではないか。

仏教:世の中を理解するために、仏教という捉え方から入った人が、理解をすすめていくための道具。

ただ、科学から、世の中を理解する、
仏教から世の中を理解する。
何れにしてもそれらの究極的な先に、
本物の真理の流れはないのではないかと思う。

近づいて近づいてもう一歩のところが、おそらくその先では超えられない。
お釈迦さんのいう「涅槃」までは、なにか大きな壁があると私は感じる。
私は、無宗教だが、逆方向からの思考をしてみる。
「涅槃」といわれるものまで達すると、
逆に科学を追究しなくても、
科学を上から見下ろす形で理解できる。
仏教も理解できる。
もちろんキリスト教も、イスラム教も理解できる。
と私は考えている。
逆に宗教にとらわれると、科学にとらわれると、
その壁は永々に超える事ができないのではないか。

つまり、
それはダライラマ法王のいわれるhigher level へ次元がかわることではないか。
 完全な「涅槃」でなくても
科学の進歩の歴史は、プチ「涅槃」から生まれているとおもう。
世界の天才数名にある直感が働き、
(歴史をひも解くと、意外に2、3カ所で同時に新しい概念が生まれている。)
今までの積み重ねでは説明つかない「発見」をする。
まず、真理の発見ありき、そしてその後、
世の中の人々がその「発見」を実証している。
真理は積み重ねの単純な先にないことを科学の歴史は実証している。
次元の変化が必要なのだ。

〜以上メモ書き

ブッタは物事を鵜呑みにするなと説いたそうです。
では、鵜呑みにすることと、「信仰」すること、
低いレベルではもちろん同じにすると怒られるかもしれませんが、
本当に高いレベルで、究極的にどのような違いがあるのか?

この答えを見つける事を自分の課題にしたいです。

今日は、散漫な私の覚え書きにつきあっていただき本当にありがとうございました。